放言録

放言・妄言・狂言

退学が決まった

 本日(平成30年12月18日)、翌31年3月31日付けで退学することが決まった。正式にはまだ退学願が受け付けられただけなので、今後教授会に諮って学長の許可を得る必要があるが、願の内容に瑕疵はないので問題なく許可は下りるだろう。

 私が今の大学に入学したのは30年4月のことだった。そもそも1月までは今の大学そのものに対する認識も、「某政治家の出身校」くらいのものしか無かったが、現在の実力相当の大学群(いわゆる「MARCH」)に文科省による一定以上の規模の大学に対する合格者抑制の方針もあって合格するかどうか怪しかったために、当時A判定は出ていた大学に出願していた。

 しかし諸般の事情で受験校が大きく制限されることになり、他に受けた唯一の大学の受験日程を誤解した結果、当日欠席で不合格、この大学に受かるほかなくなり、結果として合格したという次第だ。思えば合格発表日のあの2月のこと、私は合否発表サイトで自分が合格したことを知って大いに喜んだ。しかし、あれは本当に「この大学でよかった」という意味のものだったのだろうか。今になって振り返れば、「日大不合格が露呈しなくてよかった」という、ただそれだけの安堵感から来たものだったのではないかと思う。

 それだけのモチベーションで入学した大学は、多摩地域にあった。茨城県から通っていたこともあり中央線の混雑とはほぼ無縁であったことが救いだが、しかし往復すれば1日の4分の1を消化してしまう日々の通学は、自ずと大きな負担になった。そうして元来のコミュ力不足もあり英語の講義に出なくなったのが5月序盤、GW明けのこと。この時点で「ああ、これが五月病か」と薄々自覚はしていたが、しかし大学から遠のくその足を止めることは私にもできなかった。唯一出席をきちんと続けていたゼミに出なくなったのが、おそらく7月の序盤になるだろうか。この時点から、おそらく3年次進級は難しいものになるかもしれないなと考え、なんとか留年せずに卒業できまいかと方策を考え出していた。もっとも、真面目に講義に出るという発想は眼中にも無かったが。

 下旬には期末試験を迎えた。とはいっても、出席を問わない科目である憲法と日本政治の試験しか受けなかったため、2回受験しただけで本来慌ただしいであろう試験期間は終わった。当然ながらまともなGPAが出るわけもなく、前期の成績は19単位中8単位で0.8半ば。成績を知った9月上旬から、退学という選択肢は現実味を帯びていた。

 そして自衛官採用試験に志願したのが同月下旬、受験したのが10月の上旬になる。中卒レベルの試験だったため(数学除き)難しいとは思わなかったが、しかし何かが悪くて落ちようものなら一体どうすればいいのか、来年度の行政職国家公務員採用試験でも受けようかと思いつつ無為に1ヶ月を過ごしたところ、合格の連絡を受け取った。これが11月初旬のことになる。しかし退学には保証人の同意が必要である。やめるのに同意もへったくれもないだろうと思いながら退学の意思と入隊の方針を伝達したところ、あっさりと了承が得られた。いくらなんでもあっさりとしすぎじゃないか、とは感じたが思えば成績は保証人方に郵送されるはず。留年するかもしれないという認識は持っていたのだろう(ただ、奨学金を借りている以上留年で打ち切られれば退学しかない)。

 しかしなかなか退学の意思は伝えづらいものだったし、これを伝えたのが11月下旬のこと。そして同意を得た後に書類を受領しに大学へと赴いた。ゼミにも所属せず(必修なので籍はあるが後期は一切出席していない)、指導教員もいない私の退学の願い出は極めて事務的に受け付けられ、退学願の用紙が交付された。畢竟私も大学にとっては単なるお客様に過ぎなかったということだろうか。中学時代、ろくに出ていなかった部活動を退部する際にわざわざ面談までした担任兼顧問の顔が思い出される。膨大であろう業務負担の中でひとりひとりに向き合って給料になるわけでもない仕事をしたあの教師には随分と迷惑をかけてしまったが、今となっては頭の下がる思いになる。

 そうして保証人の署名捺印を得た退学願を今日、大学側に提出して受け付けられたという次第になる。思えば、大学生活というものに抱いた仮想でしかない理想と現実というものは、大きな違和感を私に抱かせた。結局の所高校と大差ないのではないか、という講義や騒がしい学生の姿もそうだが、なんと言っても一番大きいのは、4年間の4分の1を通学に費やしながら私はここで何を得られるのか、ということを自身が認識できなかったということに尽きるのではないか。もはややるべきことを見いだせず、学内に相談するべき相手も見つけられなかった私は、6月以降は定期で通える国立国会図書館に通い詰めるようになった。大学を中退して大学教育を否定する人間の存在を解せなかったが、今になって思うと概ね私と同じ経緯を歩んだのではないかと考えている。

 しかし幸いだったのは、在学中通して精神病にはならなかったことだ。なってしまえば自衛官採用試験を受けるという選択肢も根本から否定されることになっていた。ただ、やることもないという状況が人にもたらす悪影響というのは尋常なものではないとこの8ヶ月間を通じて痛感した。大学には適応できなかったが、この感情が残っている以上まだ社会に適応する余地だけはかろうじて残っているのかもしれない。やることのない状態というのは、怠惰で退屈だし、何よりも自分が何をやっているのか自分でも理解できなくなり、私が私たることをよく認識できなくなる。結局の所何もしたくない何もしたくないと連呼しながら何かをやっているしかないのだ。この記事を取る必要もない単位のためのレポート作成の合間に書いていることも証左となろう。

 とここまで書いておいて、退学願を提出した今、とてつもない虚無感に襲われている。退学を3ヶ月前から現実のもととして認識しておきながら、実は本心では現実感を覚えていなかったのかもしれない。しかし提出すればほぼ確実に許可される。決意から提出まで長い時間がかかったこともあるのかもしれないが、徐々に状況が変化していった経緯は現実味を失わせるのに十分だったのだろうか。

 3月末の入隊までに何をすればいいのか、自分でもわからなかったので期末試験終了後の2月から3月まで勤務できる国税庁非常勤職員の募集に応募したが、しかしこれで空白を埋められるのだろうか。いわば「学生ではない学生」という曖昧な身分と認識の中、今日も大学図書館内にいる。

追記:その後確認したら31.1.24に教授会を通過し、翌25日付で学部長の退学許可が下りたらしい。学部長レベルでいいのか。